吉田拓郎 プロフィール
吉田拓郎 属性プロフィール
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吉田拓郎 プロフィール概要吉田 拓郎(よしだ たくろう、1946年4月5日 - )は、日本の男性シンガーソングライター。本名同じ。旧芸名は平仮名の「よしだたくろう」。楽曲提供者としては「入江剣」の名を用いることもある。鹿児島県大口市生まれ、広島県広島市南区西霞町育ち。鹿児島市立谷山小学校~広島市立皆実小学校~広島市立翠町中学校~広島皆実高校~広島商科大学(現・広島修道大学)卒業。夫人は四角佳子~浅田美代子~森下愛子。おひつじ座。血液型A型。身長176cm。竹田企画、インペリアルレコード所属。日本のシンガーソングライターの草分け的存在である。マイナーな存在だったフォークとロックを一気に日本の音楽シーンのメインストリームに引き上げ、また大規模ワンマン野外コンサート、ラジオの活性化、コンサートツアー、プロデューサー、レコード会社設立など、さまざまな新しい道を開拓したパイオニアとして日本ポピュラーミュージック史における最重要人物の一人である。
吉田拓郎 プロフィール詳細
"交友関係
遊び友達泉谷しげるはエレック・レコードの後輩で、エレックを抜けた拓郎の代わりに売り出されたスターだった。世の中が泉谷の歌を下手だと言った時も「うまい、うまい」と褒めてくれたという。拓郎の家に遊びに行くと自分のレコードばかり聞かせ、イメージとは裏腹に神経質で、奥さんは「ツアーの荷造りも自分でやって1週間前から遠足に行く子供みたいに楽しそう」という。エレックが倒産しフォーライフを設立した時も、拓郎は泉谷を引き入れ、フォーライフが内部抗争を始めて泉谷が辞める時も懸命に引き留めた。「反乱を起こして出て行こうとするのに愛情がデカい。今でもオレにとって拓郎は独得の色気を持った かなわない男 目の上のタンコブ。 拓郎の強引な発想に振り回されちゃう自分が楽しいんだから不思議だ」と表現している。その泉谷と昔、飲み屋で大喧嘩をしたことがあるが、拓郎は泉谷に勝ってしまったというエピソードがある。この喧嘩の仲裁に入ったのが森山良子。森山は殴り合っている二人に「こら拓郎!泉谷!いい加減にせぃ!」と叫んだという。かまやつひろしに提供した「我が良き友よ」で歌われる“下駄を鳴らして奴が来る。腰に手ぬぐいぶら下げて”は拓郎のことを歌ったものと言われた。当時の流行の洋服店に入っても店員に「今日は下駄じゃないんですね」と言われ、この頃は道行く人にもケンカを吹っかけると思われていた。地方で静かに食事をとったり、お酒を飲んだりしていても店員に構えられ「今日はおとなしいですね」と言われ「何を期待されてるんだろう」と思ったと言う。かまやつも「50年間、この業界にいて警察官とケンカをしたのは横山やすしと拓郎だけ。ケンカが強いので拓郎を尊敬する」と述べている。そのかまやつについて、拓郎は「東京へ来てから女、アルコールなど軟派系の遊びは全部かまやつさん。今日の僕があるのは、かまやつさんのおかげ。身体はガタガタですけど」と言う。かまやつは当時流行の最先端をいっていた業界人らと付き合い、拓郎をそういう人達が集う場所に連れて行った。作詞家・安井かずみの自宅は「川口アパート(プール付き)」(川口松太郎が造った高級マンション)と呼ばれ加賀まりこ、野際陽子、コシノジュンコや当時のトップモデル・シャロン宮田、ナンシー村井ら多くの業界人が集った。そこは大使館のような世界で、カルチャー・ショックを受けた。誰にも紹介してもらえず、「絶対に東京に負けてはならない」との思いを更に強くした。同業者だった安井には「あなたたちが来てから日本はすごくつまらなくなった」「あなたの詩って男のエゴばかり、女のことなんか何も分かってない」と言われ大ゲンカとなり泣かれて、拓郎にいじめられた、と言い触らされた。しかし安井の言葉はとても響き、すごい大事な人を失った感じがある、と述べている。拓郎は1986年、加藤和彦のプロデュースで全曲を安井作詞による『サマルカンド・ブルー』というアルバムを出している。武田鉄矢は拓郎に憧れて上京しエレック・レコードに入った。ところが入った途端、拓郎はCBSソニーに移籍。また拓郎が表紙を飾った「新譜ジャーナル」に載るのも憧れだったが「新譜ジャーナル」もなくなった。つまずきから東京暮らしが始まったという。つき合いが始まったのはだいぶ後、武田が映画を撮り始めてから。1982年からの映画『刑事物語』の主題歌「唇をかみしめて」を拓郎が手掛けたり1985年、映画『幕末青春グラフィティRonin坂本竜馬』に高杉晋作役で出演した。これは坂本竜馬を演じた武田が、ずっと背中を追いかけてきた拓郎に一回、こっち側を向いて勝負して欲しい、と相手役として遮二無二に拓郎を説得したもの。また武田は拓郎を高杉晋作役で起用した理由について、拓郎の声はアジテーターの声であり、たった一声で千とか万の若者が後について行くような声。それは高杉晋作もそんな声だったんじゃないかと思うという持論で、俳優では出せないと拓郎にお願いしたと説明している。フォーライフの社長をしていた頃、夜中に武田鉄矢から「飲みませんか」と電話がかかってきたのを受けて、出かけて行った時のエピソード。夜中の酒の誘いは断る事も多いが、武田からの誘いの場合は「きれいどころ」が待っており、武田のトークで十分盛り上がっているところで、「はい、今お話していた吉田さん、はいはい拍手!」「よっ、フォーライフの社長!」などとよいしょされ、美人局のようだったという。1970年代半ばに、よくペニーレインなどで拓郎と飲んでいたガロの大野真澄は、拓郎から「一人でやれ、一人でやれ」といつも言われてたため、ガロの解散、所属レコード会社の倒産もあって1976年、フォーライフ入りした。この頃大野は、新曲より水原弘や服部メロディなど、昭和の歌謡曲のカバー・アルバムを作りたかった。ところが当時は全編カバー集を作っても売り方がわからない時代、スタッフから「そんなの作ってどうするの?」と言われ実現しなかった。ところが翌年1977年、拓郎が有名なカバー・アルバム『ぷらいべいと』を出したため大野は「別に僕のアイデアを使ったとは思わないけどね」と述べている。 音楽を通じたつき合いまだ売れていなかった頃、加藤和彦が拓郎を認めて大切なギター(GIBSON J-45)を15万円で譲った。この2人は今も師弟関係にあり仲がいい。イルカは、2007年他界した夫の神部和夫共々、最も古くからのフォーク仲間で全国をどさまわりした間柄。当時は2人が所属したシュリークスが非常に人気があり、拓郎のほうが前座だった。イルカがソロデビューして曲作りを始めた時、拓郎は自宅の居間で親身になってアドバイスしたという。シュリークスの持ち歌で、イルカのレパートリーでもある「クジラのスーさん空を行く」は、神部の詞、拓郎の作曲。井上陽水が1971年秋、ファーストアルバム『断絶』の製作開始に合わせ、当時「アンドレ・カンドレ」だった名前を再デビューを機に変えることになった。マネジメントの指揮を執った奥田義行が本名を聞くと「井上アキミ」というので、どんな字かと思ったら「陽水-ようすい」と書くという。奥田は「拓郎」を意識し、拓郎が「たくろう」という二文字で若者にインパクトを与えている。だったら下の名前の「陽水」の2文字で対抗、強調していこうという戦略を立てた。井上陽水はフォーライフの設立まで一度も拓郎に会ったことがなく、小室等から誘われて参加した理由は、拓郎に非常に興味があって、プライベートな形で拓郎に会えるということだった。もちろん道でも会えるが、同じ屋根の下で会った方がもっと分かるんじゃないか、と思ったのが参加した最も大きな理由だったという 。1972年、南こうせつに頼まれかぐや姫のデビューアルバム『はじめまして』をプロデュース。発売日にこうせつがレコード店に行くと、アルバムの宣伝ポスターのかぐや姫の写真より拓郎の写真の方が大きかったという。山田パンダは師と仰ぐ拓郎を年上と思っていたが、年下と分かり、デビュー時に自ら一歳さばを読み、拓郎と同学年としてきた。彼をずっと同い年だと思ってきた拓郎は会うたび「おい!馬鹿野郎!」と呼び続けてきた。パンダは30年以上たった2005年に還暦を迎えた際、年齢偽証していた事を公表した。かぐや姫が2000年、22年ぶりに再結成したのは、1999年の「南こうせつ サマーピクニック」で、井上陽水とゲスト出演した拓郎が、南こうせつと伊勢正三を見て「陽水も俺もいる。何でかぐや姫がいないんだ?」と、山田パンダを無理やり九州まで呼びつけたのがきっかけ。「加川良の手紙」という曲の創作の経緯を加川良がウチに遊びに来て、彼女に手紙を出したいが恥ずかしくて出せないと言うから、俺が歌にしてやったと拓郎はコンサートなどで説明している。手紙の相手の彼女とは拓郎の最初の妻・四角佳子との説もあるが加川の話では違う。レコーディングで曲が足らなかった拓郎が、切羽詰まって加川に電話してきて「余った曲ないか?」と言うから、自身も精いっぱいで曲は無いけど、当時の外国の歌にはよくあった手紙の文面にそのままメロディを付けて曲にするというアイデアをやってみたい、というのが加川にあって、書き留めていたものをレコーディングスタジオに持って行くと、拓郎がその場でメロディを付けてささっと仕上げたという。この曲が収録されたアルバム『元気です。』は大ヒットしたため、作詞者としてクレジットされている加川にたっぷりお布施(印税)が入った。また曲のタイトルにも自身の名前が入ったため、人から「あんたがあの歌の人?」と今でもよく言われるという。山本コウタローは1973年、一橋大学卒業時に「たくろう・スーパースター」という拓郎をテーマにした卒論を書いた。しかし内容に不満が残ったため、プロデビュー後、鹿児島や広島にまで足を運んで取材し、2年後に出版したのが「誰も知らなかったよしだ拓郎」という題名の本である。現役ミュージシャンが書いた現役ミュージシャンの伝記 という非常に珍しい本で、特にアマチュアだった広島時代について詳しく書かれており、拓郎について書かれた文章の多くはこの本を参考にしている。何故、吉田拓郎でなければいけなかったかについては、日本の音楽を変えていく、次の世代に大きな波及力を残していくアーティストは、吉田拓郎以外には考えられなかったと述べている。岡本おさみとの曲作りは手紙や電話でのやりとりで、プライベートでのつき合いはほとんどなかった。岡本が送ってきた詞に数年後、拓郎が曲を付けて世に出ることがあったという。「襟裳岬」に関しては、拓郎にかなり歌詞を変更されたため共同作業だったと思うと岡本は述べている。職業作詞家としてデビューしたての松本隆にCBSソニーの、これまた若いディレクター/プロデューサーだった白川隆三から担当の新人歌手・太田裕美売り出しのため作詞依頼が。これに拓郎は「お前ら(太田+松本+白川のトリオ)は売れない」と酔って松本に毒付いた。結局このトリオ+作曲家・筒美京平での4曲目のシングルが大ヒットした「木綿のハンカチーフ」で無事拓郎を見返せた。太田は拓郎をいっぱいいじめたという。拓郎はその後、原田真二の売り出しに松本隆を起用した他1978年、初の二枚組アルバム『ローリング30』制作にあたり、ほぼ全曲の作詞を松本に依頼し二人で箱根の山に篭り、一人の作詞家との完全な共作がどれ程のものになるのか、という試みを行っている。松本はこの時の拓郎との共同作業を通して、より物語性を深め、本格的なヒットメーカーとして花開くことになった。1980年、NHK-FMで『拓郎105分』という特番が放送された。この番組は長年(プロデビュー10周年)音楽業界に貢献してきた拓郎を讃え、他のミュージシャンが拓郎に感謝状を贈るという内容であった。この番組で学生時代拓郎の追っかけをしていた中島みゆきが、拓郎のことを「よた」と呼んでいた。与太者の意味か与太郎の意味か、または、「よしだたくろう」の姓と名の頭文字(「よ」と「た」)を取った呼称であるという説もあるが、いまだ推測の域を出ない。拓郎は自身のソングライティングが不調に陥った1995年、中島に直に楽曲提供を依頼。拓郎が詞曲の両方を他人に依頼したのは初めてのことで、渡された曲が「永遠の嘘をついてくれ」だった。この曲の歌詞が中島の拓郎に対する感情を思わす内容であったため、両方のファンから様々な憶測をよんだ。2006年のつま恋コンサートで、シークレットゲストとして登場した中島がこの曲で拓郎とデュエット、このコンサートの名シーンの一つとなった。同番組で松任谷由実や桑田佳祐らからも感謝状が贈られた。松任谷からの感謝状は「女と見れば一様に声をかけ何とか~」という賞だった。桑田が贈ったのは「サザンのレコード売り上げに貢献してくれたで賞」。『勝手にシンドバッド』でデビューした時「何を言っているか聞き取れない、あれは歌か」などのバッシングもあったが、拓郎は「素晴らしい。僕はテレビがダメだったが彼はテレビを壊している」と絶賛したことに応えての感謝状だった。桑田はこのあと1985年に拓郎からの影響と当時、拓郎が引退(するかのような)宣言に対する批判を歌った『吉田拓郎の唄』という曲を書いているが、この時の放送では一番影響を受けた曲として「HAVE A NICE DAY」を挙げた。桑田は拓郎が手がけたコマーシャルソングの音作りに共感したことが、自身が曲作りを始めるきっかけだったと自著等で述べている。これを受け司会者が「拓郎さんから桑田さんにエールが送られたということで、拓郎さんと桑田さんで次回の番組どうでしょう」という話になり、翌1981年3月8日に放送されたのが『激突105分!拓郎vs桑田』という番組で、トークやセッションなどをした。拓郎と桑田の他、ゲストは中学の時、拓郎の大ファンで、深夜放送で拓郎の結婚宣言を聞き布団で泣いたという原由子だった。また『Big Star Blues (ビッグスターの悲劇)』もダスティン・ホフマンやオノ・ヨーコの歌詞が出てくることが言われるが、レコードが出た時は桑田自身「吉田拓郎の事を歌った」と発言。もう1曲、2002年にソロで出したアルバム『ROCK AND ROLL HERO』の中の「どん底のブルース」は、拓郎の「人間なんて」を思わせる歌詞がある。1994年の桑田vs長渕論争(すべての歌に懺悔しな!!による論争)では「ボクは桑田クンのファンとしていえば、桑田クンは何も説明しなくてもいい、謝る必要なんてない」などと桑田の肩を持つ発言を行い長渕をトーンダウンさせた。2003年夏に吉田が癌治療で休業中、サザンオールスターズがライブで自身の楽曲『吉田拓郎の唄』の批判めいた歌詞を大幅に変更、拓郎をより賛美する内容にして、遠い地から拓郎にエールを送った。また2008年2月24日「俺たちのオールナイトニッポン40時間スペシャル」の放送で療養中、桑田から復帰を願いギターのテレキャスターを贈ってもらったエピソードを披露した。松任谷はデビューしたての頃 女拓郎 と呼ばれた。このため、それまで聴いたことがなかった拓郎の曲を聴いた。感想は、私のやったことは拓郎やかぐや姫とは違う。私のつくった曲は今までにない新しいものと思った。拓郎らの音楽とは違う、これを区別する例えとして「四畳半フォーク」って言葉を自分が考え出したと自著で述べている。矢沢永吉はソロデビューした1970代後半に、フォーライフの社長となった拓郎にマネジメントのことを聞きに夜よく電話してきたという。こうした関係からか二度目のオールナイトニッポン(1980年~1982年)で、当時は拓郎以上にテレビもラジオも出なかった矢沢がゲスト出演した(1981年6月6日)。話の内容は、矢沢が拓郎のようには他人に曲を書かない理由や、コンサートでやはり拓郎のように喋り(MC)をあまりやらない理由。それぞれ理由は「先に自分の曲でしょう」と「喋るとクサくなるので次、曲行こうになる」という話だった。その他、アメリカから招いたミュージシャン達をよくディスコに連れて行く話など。他に「矢沢は自分の曲をプライベートで聞くか」という話では、矢沢は「あまり聞かない」と言ったが、拓郎は「よく聞く、それも寝るとき自分の曲を聴きながら寝る」と言っていた。矢沢はこの頃コンサートでもあまりしゃべらず、神秘性を保っていたため、仲良しの拓郎と饒舌、かつ楽しそうに話して矢沢ファンを驚かせた。なおこの放送は、矢沢の公式サイト「YAZAWA'S DOOR」で会員限定で配信され、再配信リクエストが1位になったことがあるそうである。中村雅俊とは1975年『俺たちの勲章』の挿入歌「いつか街で会ったなら」のレコーディング以来、つき合いがあるようで1981年頃、拓郎のオールナイトニッポンの生放送中、中村が泥酔状態でスタジオに乱入、「俺は拓郎が好きなんだ!」「だから俺は拓郎が好きなんだよ!」と同じ言葉を連呼し拓郎に絡み、あっという間に帰っていったことがあった。中村雅俊がニューミュージック寄りのイメージがついたのは拓郎の楽曲提供がきっかけだった。1999年7月25日には『吉田拓郎&中村雅俊の蘇れ青春!広島の旅!』という番組がTBSテレビで放送された。拓郎が中村を2泊3日で広島の思い出の地を案内するという趣旨の番組で、母校・皆実高校の教室で初恋の女性・準ちゃんと30年ぶりに対面もした。1998年9月19日・26日放送の「LOVE LOVEあいしてる」では、拓郎の曲の中で「恋の唄」が好きだという所ジョージから「自分が作詞・作曲したことにさせてほしい」と強引な依頼を受ける。所はそのお返しに「精霊もどし」という、グレープの「精霊流し」をパロディにした曲を吉田拓郎作詞・作曲にしていいと交換条件を出す。所は自分が作ったにもかかわらず、「拓郎さんもすごい歌を作りますね」と言って笑わせた。その後、所はJASRACに登録されている作詞者・作曲者名も書き換えようとしたが、認められなかったという。ちなみに、所の担当レコーデイング・ディレクターはグレープでさだまさしとコンビを組んでいた吉田政美。「たどりついたらいつも雨降り」は1972年、ロックバンド・モップスに提供しヒットしたこともあって、その後も子供ばんど、山崎ハコ、和田アキ子らがカバーしたり、ロック系のバンドによくライブで演奏される。2008年には、大友康平が選曲して出した70年代日本歌謡の名曲のカヴァーアルバム『J-STANDARD70's』にも収録された。他に「落陽」も取り上げているため、アルバムの12曲中、2曲が拓郎作品となった。大友は1994年、長崎・普賢岳噴火災害救済コンサートの時、拓郎の発案、泉谷しげるの呼びかけで結成したスーパー・バンド(ギター・泉谷、ベース・吉田拓郎、キーボード・小田和正、ツインドラム・浜田省吾、大友康平、が一応の基本?で、忌野清志郎、井上陽水、さだまさし、南こうせつ、伊勢正三らがボーカルや楽器で交替?)で拓郎をリーダーと祭り上げて以降、拓郎をバンマスと慕っている。このバンドは1996年の阪神・淡路大震災救済支援コンサートでも組まれ、山本潤子、稲垣潤一、大江千里、坂崎幸之助らが加わり少々ツアーもやった。「LOVE LOVEあいしてる」でKinKi Kidsへのギター指導を企画されたときは全くその気にならなかったというが、彼らが合間の時間に階段で一生懸命練習しているのを見かけ、それ以来熱心に指導したという。吉田自身KinKi Kidsをとても可愛がり、今でも交流がある。 影響を与えたミュージシャン井上陽水の現在の夫人である石川セリは新人の頃、当時絶頂だったアイドルのような演出を強要された。演歌と歌謡曲のくくりもイヤ、自分の居場所はどこにもないと考えデビューから2、3年、仕事も少なくなり、このまま引退するつもりでいた。ところが拓郎が出てきてくれて、やっと日本の歌謡界でも、ポピュラーミュージックの素晴らしさが評価される時代になったかもしれない、と自分の出番がやってきた気がしたという。歌を続けることができたのは拓郎のおかげ。まずは拓郎でしょう、拓郎の存在で浮かばれたと話している。なお、石川セリと井上陽水が出会ったのは、石川と松任谷由実がゲストで出ていたラジオの生放送のスタジオに、石川のファンだった陽水と拓郎が酔って乱入したのが最初。長渕剛は中学を卒業した1972年、フォークコンサートでトリを務めた拓郎の歌を聴いて大きなショックを受け、一旦放り投げていたギターを再び手に取りフォークにのめり込んだ。「拓郎はカッコ良かった。オレたちの世代にとっては、みんなの憧れだった」と語っている。広島フォーク村時代からの先輩・後輩となる浜田省吾とも師弟関係にある。浜田らが「愛奴」を結成してCBS・ソニーのオーディションを受ける際も拓郎の自宅を訪れ相談。「愛奴」プロデビュー前の1974年、拓郎の全国ツアーのバックバンドに「愛奴」を起用し浜田はドラムを担当した。「愛奴」の起用はザ・バンドに断られたため回ってきたもの。浜田は1997年に拓郎の50歳を祝って拓郎のデビュー曲「イメージの詩」をカバーしたり(拓郎自身もコーラスとアコースティクギターで参加している)、後のつま恋コンサートで再びドラムで参加するなど、長きに渡って交流を持ち続ける。広島フォーク村の実質の活動期間は2年程であったが、1978年に第Ⅱ期広島フォーク村として再び活動を行った。この時に参加したミュージシャンに上綱克彦(元柳ジョージ&レイニーウッド)や村下孝蔵らがおり、広島フォーク村の拓郎の一応の後輩となる。1981年、オールナイトニッポンの番組企画で、拓郎のメドレー曲の製作を依頼された坂崎幸之助(覆面バンド・ビートボーイズ)は「待ってました」「俺しかできないだろ」と製作に励み、歌も生ギターの弾き方もMCもコピーする徹底ぶりで話題を呼んだ。高校時代の青春・拓郎と仲良くなれた坂崎は僕のフォーク人生はこれで終わってもいいと思ったという。姉が拓郎のファンだった氷室京介は、姉のギターで拓郎の曲を弾いたのが音楽を始めたきっかけ。氷室はBOWY解散後、ソロになった後「たどりついたらいつも雨降り」をカバーしている。スピッツの草野マサムネは「子供の頃、明星みたいな雑誌で、ほとんどのアイドルが親交のあるミュージシャンとしてよしだたくろうを挙げていたことから興味を持った」「自分で曲作りを始めてからも、僕は日本のロックに全然興味がなくて、参考にした歌謡曲の作者に筒美京平さんや都倉俊一なんかと同じくらいよしだたくろうさんの曲がいっぱいあって、すごい才能のある人なんだなと感心した」「スピッツの7枚目のシングル「君が思い出になる前に」は「春だったね」の歌いだしをタイトルに借用したもの」「直接的な影響はそんなにないけど、間接的にはみんなものすごく受けてるんでしょうね。そういう意味では、日本のビートルズ的な存在なのかもしれないですね」と話している。同様にオークラ出版「FOLK LIFE 倶楽部」誌は日本に「ビートルズ」がいるとすれば、後の影響力も考慮すれば、それは「吉田拓郎」その人なのであると論じている。前記以外のミュージシャンで、拓郎のファン、あるいは影響を受けたと話している人に、ブラザートム(バブルガム・ブラザーズ)、木根尚登(元TM NETWORK)、織田哲郎、花田裕之、日浦孝則(class)、ダイアモンド☆ユカイ、トータス松本(ウルフルズ)、YO-KING(真心ブラザーズ)、ROLLY、岡平健治(3B LAB.☆S)、Takayo(元ZONE)、コザック前田(ガガガSP)、山口隆(サンボマスター)、大橋卓弥(スキマスイッチ)、藤巻亮太(レミオロメン)、ミドリカワ書房、つじあやのらがいる。YO-KINGは拓郎軍団に入っていたという。奥田民生は皆実高校の19年後輩、MEGは34年後輩。拓郎と奥田は1999年、『HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP』(フジテレビ)のオープニングMCを二人で広島弁でやったことがある。 確執・その他縁のあったミュージシャン拓郎が1971年7月から始めたライブハウス・渋谷ジャンジャンでの定期コンサートで、拓郎の前座をよく務めていたのが「僕の好きな先生」や「2時間35分」などをアコースティックでやっていたRCサクセションだった。忌野清志郎は当時、拓郎が嫌いで出番が終わると顔も見ないで帰っていたという。松山千春は「拓郎が嫌い」とラジオや自著で発言。これを聞きつけたか拓郎も「松山が嫌い」と発言する事態となり、犬猿の仲ということになっていた。しかし2000年7月29日に拓郎が司会を務めていた「LOVE LOVEあいしてる」に松山がゲスト出演。並んで座ったが2人で会話をからませることはなく拓郎は終始無言、松山の独演会となった。拓郎嫌いの理由については、岡林信康が好きだったが岡林のあと拓郎派と加川良派に分かれ、加川良のほうが好きになったため、好きの反対なら「拓郎→嫌いだろ」と説明した。テレビ出演拒否のきっかけを作った布施明からは30年後に正式に謝罪を受けた。但し最近も布施サイドから曲の依頼があるが「俺は絶対に書かない」と言っているという話もある。また2006年、つま恋の復活コンサートの大成功で、この年の『紅白歌合戦』の目玉とも言われた拓郎が出場を辞退したのは布施が出るからとも言われた。古井戸の金崎芳樹(加奈崎芳太郎)が1971年8月頃、エレック・レコードに入社が決まり、一度会社に挨拶に行こうと事務所を訪ねると、部屋の隅でダンボールの梱包をしているオジさんと、奥の机で電話してる拓郎がいて、拓郎に「社長さんはどこですか?」と聞いたら梱包をしているオジさんが社長で、拓郎は電リクをしていた。「夜ヒット」初出演は1980年6月30日。その約8ヶ月前の1979年11月12日に出演が予定されていたが、直前になって曲目等の件でスタッフと折り合いがつかなくなりキャンセル。この時に拓郎の代役として夜ヒット初出演を果たしたのが、まだレコードデビューして間もなかったCHAGE and ASKAであり、この出演を機に一気に彼らの知名度が上昇し翌80年の「万里の河」大ヒットの土壌が育つこととなった。彼らも拓郎、陽水を聴いてた世代。飛鳥涼は「いまだに陽水さんに会うと緊張するし、拓郎さんに至っては話もできない」と話している。コミックシンガーの嘉門達夫は「ペニーレインでバーボン」にインスパイアされた字余りの歌「天才でバカボンを」を作った。 ミュージシャン以外志村けんとよく飲み、電話で呼び出せる仲良し。志村の著書のあとがき・解説を拓郎が書いている。志村は拓郎以外のミュージシャンの飲み友達で他に、拓郎よりも意外な柳ジョージを挙げている。明石家さんまは拓郎のファンで、拓郎が『さんまのまんま』にゲスト出演したのは、さんまからの強いオファーがあったため。さんまがハイライトを吸うのは拓郎をまねたという。ビートたけしと1982年、『すばらしき仲間』(TBS、4月11日)で対談したのも、たけしから「会いたい」とオファーを受けたものだった。世に出たのは10年違うが二人は同世代である。爆笑問題は二人ともファンだったと話している。太田光はテレビで「流星」を歌ったことがある。秋吉久美子は1972年高校三年生の時、将来を決めかね追い詰められた気持で夜中、ラジオで拓郎の深夜放送を聞いていると、拓郎が夏休み1ヶ月で四国に行って映画(旅の重さ)を作るのでヒロインを募集する、と言うのを聞き、ああ、ちょうど夏休み1ヶ月間か、どっかに行っちゃいたいなあと思いオーディションを受けたのが芸能界入りしたきっかけだったという。デビュー作の映画『旅の重さ』は音楽を拓郎が担当した。秋吉はあたしは岡林信康、吉田拓郎、泉谷しげる、などで育ったと話している。みうらじゅんは「気ままな絵日記」がバイブルといい、自身の文体はどんな文豪より拓郎の影響を受けているという。その他、文化人では柴門ふみ、泉麻人、岡崎武志、高須基仁、佐々部清、森達也、秋元康、重松清らがファン、ファンだったといっているが、文化人の理解者は多いと言えず、重松は「もし拓郎が亡くなっても朝日新聞の文化面とかに吉田拓郎とは何であったかをまともに書ける人って、ほとんどいないんじゃないかな」と心配している。 3度の結婚最初の四角佳子との結婚では婚約発表も自身のラジオ番組、パックインミュージックの中だけ、マスコミの取材・会見も一切しなかった。おめでたい結婚でマスコミを拒否するということも当時の常識では考えられないことだった。スターが結婚したら人気は間違いなく落ちる、というのも世の常識だったが逆に人気が上昇した。二人目の妻となった浅田美代子は拓郎自身もファンで、当時21歳で人気絶頂期だった浅田を自分の持ち番組にゲストで呼び、その後結婚した。後に浅田が芸能界に復帰し「オシャレ30・30」等のトーク番組でその時のことを詳しく話してしまい、拓郎の行状が明らかになった。ゲスト出演して電話番号を交換すると後日(浅田の誕生日の前夜に)拓郎から電話がかかってきて「今、小室等さんと飲んでるんだけど、誕生祝いしてあげるから0時過ぎたら来なよ」と誘われた。マネージャーからは会ってはいけない、と釘をさされていたが、言われた酒場に行くと拓郎一人しかいない。「小室さんは?」と聞くと「ああ今帰ったよ」と言った。小室をダシに使ったわけである。一説には男子トイレの前で拓郎が通せんぼをして「俺と結婚しろ!」と浅田に迫ったところ、浅田は恐怖と照れと喜びが混ざって頭の中が真っ白になり、思わず「ハイ」と承諾してしまった、とも言われている。なお拓郎からプロポーズを受けた浅田美代子の返事は 「……ハゲない?」だった。その後再び同じパターンで森下愛子とも結婚した。二度目のオールナイトニッポンのゲストで呼んだ時、森下は警戒し親友の竹田かほり(現・甲斐よしひろ夫人)と一緒にやって来た。森下は当時、根岸吉太郎との結婚が噂されていたが急転、拓郎と再々婚した。「オシャレ30・30」に出演(1988年5月15日)した森下自身の話では、ラジオにゲスト出演した2、3年後に偶然?美容室で(当時、アンドレ・ザ・ジャイアントみたいな頭をしていた)拓郎に会って「今レコーディングやってるんで、見に来ませんか」と誘われて行ったのが付き合い始めた切っ掛けという。他に古舘の「拓郎さんみたいな人を相手にするの大変でしょう?」という質問に対して森下は「いいえ、前のお二人が角を取って下さったみたいで、今はとても扱いやすいですよ」と答えていた。なおこれとまったく同じことを弟子の長渕剛が石野真子との結婚の時にした。こちらをセッティングしたのは当時、オールナイトニッポンの構成作家をしていた秋元康。これもフォーク・ロック系ミュージシャンとアイドル、あるいは女優との結婚の先駆けでもあった。ハワイの教会で行われた長渕と石野の結婚式の仲人を務めたのは拓郎と浅田夫妻(当時)であった。 その他
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